>> おまけ 地図北側の "プチスポット" をまとめてみました。

 ● Pt.1 万田貝塚
 それは、道路の脇にひっそりとあり、注意しないと行き過ぎてしまいます。
万田貝塚
 貝殻坂貝塚ともいう。縄文文化の遺跡。下万田通称貝殻坂にある。第2次堆積によるローム層のすそに貝塚が形成された。貝層中の土器は前期の関山式、黒浜式の繊維を含み、表面に縄文、内面にかすかに条痕のあるものが出ている。上部の黒土中には中期の五領台式、勝坂式、加曾利E式土器片があり、さらに上方に後期の堀之内式、加曾利B式土器片が包含されている。
 石鏃、礫器、石斧、石錘等があり、自然遺物はホタテガイの如き寒系貝類を含んでいるのは注意される。他にハマグリ、朝鮮ハマグリ、オキアサリ、サンゴ、黒ダイ、スズキ、カレイ、ウチムラサキ、クジラ、シカ、イノシシ、イヌ、アナグマ等が出土している。

 ● Pt.2 山下長者屋敷跡
山下長者屋敷跡
 東西110m,南北110mの屋敷址で、深い空堀,高い土塁が残っている。この中に居住している露木亮氏の屋号は「堀の内」と云われて屋敷内にいる旧家であることをもの語っている。
 この屋敷址は単郭方形の初期舘城形式に属していて、鎌倉時代(12世紀)のはじめ頃につくられ、有力な土豪がすんでいたようである。
 伝説によると山下長者がいたとか、又宮内判官家長が住んだとも云われている。
 父の仇工藤祐経を討った曾我兄弟の兄十郎祐成の愛人虎女は、ここに生まれ、建久4年(1193)5月、祐成が討たれたあと、虎女は尼となってこの付近にいてその菩堤を弔ったとの話しがある。

 ● Pt.3 虎女住庵の跡
虎女住庵の跡
 1193年5月28日、富士の裾野において、父の仇、工藤祐経を討ち本懐を遂げ討死した曽我十郎祐成と捕らえられ刑死した弟、五郎時致の悲報を受けた十郎の愛妾、虎女は出家の意志を固め黒髪を剃って尼となりここに閑居したと伝えられている。
 曽我物語には高麗寺の奥に籠ると書かれている。この地も高麗寺山下の地名となっているので曽我物語にいうところもこの地ではないかと推定されている。
 虎女は53才で生涯を閉じたと伝えられている。

 ● Pt.4 虎女得度の寺(荘厳寺)
虎女得度の寺(荘厳寺)
 浅間山を背景に木立に囲まれた静かで眺めの良い寺。ここ荘厳寺は、虎目得度の寺として知られる。

 ● Pt.5 虎女の文塚跡
虎女の文塚跡
 虎女は曽我兄弟追善のため諸国を巡歴し、故郷のここ山下に帰ってきて、亡き十郎の追幕の念を断ち切ろうと生前送られてきた文の数々をこの場所で焼いたと伝えられている。
 そのため、「灰塚」・「文塚」とも呼ばれているそうだ。



〜 Break Time 〜
 平塚の市街地を出て10分あまり歩くと、化粧坂と呼ばれるなだらかな坂になる。鎌倉時代はここが大磯宿の中心で、遊女屋も置かれていた。この遊女屋にいたのが、曽我兄弟の兄である十郎の愛人、虎御前である。曽我兄弟は、現在の国府津駅と二宮駅の間にある町家から1kmほど山間に住んでおり、足繁く虎御前のもとに通ってきていたという。
 化粧坂には、虎御前が朝夕の化粧で使っていた井戸の跡,大磯宿の延台寺には、曽我十郎が仇相手に襲われたとき、身代わりになって彼を助けたと伝えられるが残っている。
 舞の名手として源頼朝にも認められていた虎御前は、曽我兄弟が敵討ちに成功し、討死にしたとき19歳だった。貞節で義に厚い虎女は、剃髪して尼となり、亡くなるまで兄弟の菩提を弔ったという。
 
・曽我兄弟
 鎌倉時代に書かれた曽我物語の主人公。曽我五郎・十郎兄弟の生い立ちから、仇敵 工藤祐経を討つまでを書いた軍記物語。
 曽我十郎祐成が愛人虎御前への手紙を書くため、この池の水を使って墨をすったと伝えられる曽我十郎硯池が、湘南平にある。
・虎御前
 鎌倉初期、近くに住む山下長者は、40をすぎても子に恵まれず、夫婦は日頃、信仰するこの地の虎池弁財天に日夜祈願を込めていた。その願いが通じ、ある夜、夢枕に弁財天が現れ、願い事は叶うであろうとお告げがあり、目覚めると枕元にきれいな石があった。ほどなく寅の日、寅の刻に女子を授かった。虎女である。
 ところが、虎女の成長とともにこのも大きくなっていくので、人々はこれを生石といい不思議がった。長者は、その霊験を奇端とし、この石を「安産子授け」「家運降盛」の家宝としてお堂を建て、大切に守った。
 虎女は成長するにつれ、容姿は花の如く、艶色は遠くまで聞こえた。そんな時、曽我兄弟の兄十郎と結ばれ、十郎は大磯に足しげく通うようになった。仇、工藤祐経をつけ狙う十郎は、ある時、逆に祐経の知るところとなり、彼が差し向けた刺客に襲われた。ある者は太刀にて切りつけ、またある者は矢をつがえて射た。しかし、不思議なことに太刀にて切りつけ、矢を射たのは「虎が石」であった。石は刀の傷跡と矢傷の跡がはっきり残っていた。十郎は、この「虎が石」が身代わりとなって命を救われ、やがて父の仇・工藤祐経を富士の裾野で討ち果たすことができた。
・遊女屋
 鎌倉時代の遊女は、白拍子とも呼ばれ、詩歌管弦に長じており、江戸の飯盛女とは少々別の存在だった。
 一方、旅籠に客を呼ぶためにいるのが飯盛女。他に、飯売女・宿場女郎・おじゃれとも呼ばれる。江戸幕府では、公に認めた遊廓以外に娼婦を置くことを禁じていたのだが、旅籠経営のためには認めざるを得ず、1718年より1軒につき2人までの飯盛女を認めた。
  



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