ここでは、地図の北側にある史跡を紹介します。

 ●五霊社(の保全樹)
五雲社
 この「たぶのき」は、昭和51年7月1日に平塚市保全樹木指定第11号に認定された。

 ●春日神社
春日神社
 平塚本宿の鎮守。1654年「春日神社縁起」によると、「平塚山黒部宮は、1191年右大将頼朝卿が馬入川橋供養の御祈願所にして橋成就の後に勤請云々」とあり、「吾妻鏡」には1192年には頼朝の御台所政子の平産祈願として、「黒部宮、範降寺」に神馬の奉納と誦経を修せられたとある。黒部宮は当社の旧名で、現社地より南方700mの所にあったが、津波で社殿が流失したので現在地へ移されたといわれているそうだ。

 ●お初の墓
お初の墓
 ここは、旧広蔵寺の墓地だそうです。気付かず通り過ぎる所でした。
 
 ●要法寺
要法寺 旧平塚本宿西仲町にあって、松雲山と号し日蓮
宗である。寺地は、昔平塚左衛門尉泰知人道松雲
(寺伝に北條泰時の次男とある)の舘址であった。
1282年泰地は、病を養うため身延山を発し武蔵
国池上に向かう日蓮を、泰地は9月16日にこの舘
へ招請し、仏尊四句要法の説法を聴聞した。この
時、長谷川氏・鶴若氏などを始め改宗者数十名に
及び、泰地はみずからも出家し居舘をそのまま寺
とし、日蓮を似て開山とした。中興開山は、身延
山17世日新で、寺宝として、日蓮直筆の消息切等
がある。
 境内には鶴若・古家両氏の墓、代官坪井治右衛
門一族のの墓、七面社等がある。

 ●要法寺(七面社方面)


 ●平塚の塚緑地
平塚の塚
 「新編相模国風土紀稿」によれば、「土人日、昔高見王の子政子東国に下向あり857年2月25日逝く。其の柩を当所に埋め、塚を築いて印とす。塚上平らかなるより地名起れりと伝ふ。」とあり、また、要法寺の古記録には、「高見王の局砂子」ときされてある。
 高見王は、桓武天皇の孫に当たり、子の高望王は平丿朝臣を賜姓され上総介に叙任された。したがって政子又は砂子は、平丿高望の近親者であることが推定できる。
 伝説として塚の上に1本の松を植えてしるしたとあり、また昔女体天神社があったと言われている。1830年の古図によると「金掘塚」ともよばれていたようである。
平塚の碑
 平塚の碑の傍らにある添碑は、昭和32年10月、塚の主である「平丿真砂子」千五百遠忌に際して建立されたもの。「真砂子」としたのは、平丿政子と砂子とでまぎらわしいので宛字にしたらしい。
 以上の解説で、判る人は判るかもしれないが、私にはちょっと......。桓武天皇の孫の高見王の娘の政子(寺の縁紀は砂子,碑は真砂子)が857年にここで亡くなった。そこで塚をつくったが年月を経て上が平になり,また、政子が平家であったことから平塚と呼ばれたという伝承が残っている。 →こちらの解説の方が私向きです。
 
 ●大鷲神社
大鷲神社
 大鷲神社の来歴などはよくわかっていません。通称「おとりさま」といわれ、公園の整備とともに社も再建され、11月の酉の碑には酉の市が開かれているそうです。
供養碑
 この地区には2基の関東大震災供養碑があり、もうひとつは阿弥陀寺境内にあるそうです。

 ●八王子神社
八王子神社
 この神社は、1778年の諌札には「東照大権現」
とあり、1835年の書上帳から「八王子権現」と
記されている。なぜ八王子と社と改めたか明りょう
ではないがもともと徳川家康を祭神としていたこと
はたしかだそうだ。
 伝説によると家康に従って三河国より移住してき
た鷹匠笹尾隼人正成の子孫伊兵衛幸保が、報恩のた
め家康が鷹狩りの折、この地に休息した由縁をもっ
て東照宮を祀ったという。江戸時代は子孫の通称
「大笹屋」が代々「かぎ取役」を勤めていたそうな。



 ●見附台体育館
見附台体育館
 昭和30年10月16日、第2期工事(全5期 昭和39年10月20日全館完成)が完了し、第10回秋季国体のバスケットボール会場として使われた見附台体育館。バスケットボールコートが4面とれる広さがあり、その規模は当時東洋一と称されるほどでした。
 およそ50年の間市民に親しまれた同館であるが、老朽化著しく、耐震性も心配されることから、平成16年9月30日に閉館しました。

 ●崇善公民館とくすの木(見付台緑地)
見付台緑地
 平塚小学校では明治28年3月、校庭の一隅へ樟の種を蒔いたところ、6月15日大地をわって双葉が萌えいでいた。種子は明治27・8年戦役講和記念として、神奈川県知事中野健明が県下各学校へ配付したもののひとつである。以来、大地震,台風,空襲で痛めつけられながらも現在に至っている。この地は平塚小学校(現在の崇善小学校)の旧地で、ここに学んだ児童たちはひとしくこの樟樹の傍らで遊びたわむれた記憶をもっている。
 大木はあちこちにあるが、播種、発芽の記録を持つ老樹は皆無に等しい。その意味から言って、この実生の樟は、かけがえのない天然記念物である。 とのこと


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