■ 9月3日〔水) スケジュール
8時頃 新今宮 → 七堂 8時半頃 南海電車
×××××× 堺観光 ××××××
1時頃 湊 → 新今宮 1時半頃 南海電車
新今宮 → 天王寺 歩き
×××× 天王寺付近観光 ××××
1543年種子島に初めて鉄砲が伝来したが、その2年後には橘屋又三郎が製造を始めた。打刃物や天秤の製造技術を転用して、たちまち堺は鉄砲王国になった。 虫籠窓の鉄砲鍛冶屋敷・井上家だけが残ってますが、内部は非公開だそうです。 |
1615年4月28日、大阪夏の陣で堺は焼き討ちにあったが、その2ヶ月後には復興の街割りが始められた。山口家住宅も、その頃に建てられた庄屋・越前屋の住宅で、重文になっている。 |
豊臣秀吉に仕え、熊本の宇土城主となったキリシタン大名小西行長の生家跡。ここにあった薬種商の子に生まれたという。 |
江戸時代は幕府の直轄地だったので、ここに堺奉行所が置かれていた。その跡地に堺奉行所跡と旧堺市役所跡の碑が立っている。 |
江戸時代に貴意との取引事務を行った「糸割符会所跡」の他、自治政府の事務所だった「北端郷惣会所跡」,「堺商工会議所発祥の地」,「山本梅史生家の跡」の碑が並び立っている。 |
● 千利休屋敷跡
利休は1522年に豪商魚屋の長男に生まれ、17才の時に北向道陳に茶を学び、のち武野招區鳥師事した。やがて、織田信長・豊臣秀吉の茶頭になり、侘び茶を完成させた。そして、1591年に秀吉から切腹を命じられ、70才の生涯を閉じた。 |
千利休の師、武野紹區鳥の屋敷跡。 紹區鳥は、村田珠光の門人宗陳・宗悟に茶を学び、珠光の侘び茶を発展させた。四畳半座敷の考案者としても知られている。 |
武野紹區鳥の弟子だった今井宗久の子で、和泉・河内の代官となった今井宗薫の屋敷跡の碑。 |