My First Operation - hospitalization -

 2003.2.9 午前9時頃? 長野県の某スキー場にて3重衝突事故が発生。 スキー場にはよくある話であろうが、まさか、当事者になるなどとは夢にも思っていなかった。スピードこそ出していたが、天候も良く視界良好、周囲にはかなり注意していた時に起こったので、自分的には、何か納得がいかなかった。
 私はこの事故で右膝に重症を負ってしまい、(右大腿回頭筋腱開放性断裂 右膝関節軟骨損傷)佐久にある某総合病院に担ぎ込まれる。生身では、刃物には勝てない事を身をもって経験した。

○あくしでんと
 もの凄い衝撃を伴い、私は、左側から迫ってきたスキーヤーN氏と衝突した。その反動を伴い、今度は右側のボーダーに衝突したようだ。 右20cm左30cm。逃げ道が無い状況に戸惑いながら、私は最終判断を誤ったのだろう。今思えば、減速したのがいけなかったかもしれない。逃げ道は、前方に残されていた様な気もする。そのままの勢いを保ち、強引に追い抜けば、私はこの場から、逃れることが出来ていたかもしれない。左に身構えたのもいけなかった。刃物(エッジ)という凶器は、むしろ右側にあったのだ。
 そんな状況に陥ることも問題であるが、なってしまったものはしょうがない。少しでも被害を食い止めるべく対策を講じる必要がある。これも最近になって気付いたのであるが、こんな時は、相手が気付き、よけてくれる事を期待してはいけない。相手が気付くようなら、こんな状態に陥るはずが無いのだ。愚かにも、私はこんな単純な事すら考えつかなかった。運が悪いといえば、その通りなのであるが、こういう状況があったという事実は、つまり、今後も十分ありえるという可能性でもあるのだ。そして、「二度と同じ失敗は繰り返さない」ために、「私はどうするべきであったのか」と言う疑問に対する回答は、今なお頭の中を迷走し、まとまるという結論をみない。

 しばし、雪上にうずくまる。右足がしびれている。体の他の部分は問題ないようであったが、右足のしびれだけは、何分経っても取れなかった。左手方向にN氏がうずくまっている。事故時、右にも左もよけられないと悟った私は、とっさに左をブロックしていたが、残りの二人は、訳も判らずに衝突した模様。そりゃそうだ。二人とも気付いてなかったんだもん。
 上の方から上級者の集団が、衝突時に外れた板4本を持って降りて来てくれた。こういう時のSKIERは、殆どの場合において皆優しい。私の右足は、相変わらず動かすことが出来なかったが、このまま此処にいては、他の人達にも迷惑である。何とかゲレンデの端まで這えずっていった。
 私がゲレンデ端でうずくまっていると、N氏もどうにかここまで這えずってきた。胸が痛いらしく、手で押さえている。かなりの重症と推測された。しばらくすると、ボーダーが私の上に避難してきた。この時は理解していなかったが、どうやら3人目の被害者であったようだ。
 N氏が私に指摘する。
 「右足から血が出てるぞ!」
 驚いて右足を見ると、確かに血が付いていた。そして、ひざ小僧付近のウエアーがスパッと10cm位?切れていた。
 しばらくすると、パトロールの人が来てくれる。(どうやら、先ほどの上級者集団が呼んでくれたらしい。)パトロールは、まず、うずくまっているボーダーに声をかける。
パトロール: 「大丈夫ですか?」
ボーダー : 「ちょっと、ダメみたいです。」
     次に、N氏に声をかける
パトロール: 「大丈夫ですか?」
N氏   : 「ろっ骨をやられたみたいです。でも、そっちの方が重症みたいです。」
     と、私の方を指さした。
 パトロールは、私に近寄り、ズボンの裾をめくる。そして、「切りますよ」と断って、私のタイツをハサミで切った。(1万円もしたタイツの最後であった。でも、出血があまり無かったのは、このタイツのおかげと信じている。)すると、膝がすっぱりと、見事に割れていた。どうやら一番元気であった私が、一番の重症のだったようである。パトロールは、あわてて止血をしてくれた。
 それまで、自力でゲレンデを降りていくつもりでいた私は、事の重大さを認識した。N氏もパトロールも、この傷をみてびっくりしていた。パトロールは担架を運んできてくれ、それに私を乗せると、パトロール室まで運んでくれた。その間に、無線で救急車が要請される。対応の迅速さは流石であった。

○あんびゅらんす そして ほすぴたる
 担架に乗せられ、救急車へ乗る。N氏は胸をおさえている。救急隊員は、私達に言った。
 「近くにも病院はありますが、怪我が怪我なので、佐久まで行きます。」
 訳も判らず私はうなずいた。この救急車が、私たちを粋な病院に連れていってくれたと判ったのは、暫く経ってからである。サイレンを鳴らしながら、救急車は佐久へと急いだ。実際には30分以上の道のりであったが、私にはもっと短く感じられた。
 病院へ到着する。色々聞かれる。住所、氏名...etc.etc.
 パトロール室,救急車,病院。それぞれの場所で、それぞれ全く同じことを訪ねられるので、いい加減うんざり。面倒なので、その度に免許証を渡す。その場にいた看護婦らは、緊急患者にどう対応していいのか判らないのか、おろおろしている。ただ、傷の状態を見て、慌てて整形の先生を呼びだしてくれた。 若い医師が、私の家にも連絡を入れてくれる。 すると、電話の向こうで親父は話す。
 「どうしても今日中に行かなきゃあいけませんか?」
 落ち着いたものである。実のところ、慌てて来てもらっても、(命に別状あるわけではないのだから)あまり意味がないと思っていた。こんな遠くへはそうそう来られるものではないので、私的には、手術後に改めて(つまり、必要なものを連絡してから)来て欲しかった。
 手術に立合ってもらっても、手術の結果は変わらないのだし、第一、神奈川からここまで来る間に、手術など終わっているはずだ。私の顔を見るためだけに来院してくれても、どれだけの意味があるのだろうか。 しかし、病院側にとってはそういうわけにも行かないらしく、先生は親父を説得していた。
 
 整形の先生が病室に入ったあたりから対応が迅速になる。血算,生化...。まるで、漫画の一シーンの様なせりふが飛びだす。(こっちが本家か...)そして、レントゲン、点滴、採血、書類への記入と、手順は進んだ。力の入らない手であちこちにサインもした。「書類ぐらい、点滴したり血を取る前に、済まさせてくれればいいのに。」 少し不満であった。
 そんな時、看護婦が私に話しかけた。
 「スキーパンツ切っちゃっていいですか?」
 私は抵抗した。(タイツが駄目になっってしまった以上、ウエア位は確保しないと。)余り労せず脱げそうだったので、私はあくまで切ることを拒んだ。整形の先生は、
 「大丈夫。手術室で脱がしましょう」
 と、言ってくれたのだが、看護婦らは納得してないようで、あくまで切りたい様子。仕方なく自分で脱ごうとしていると。
 「もう、手術まで時間がありませんから」 と、牽制された。
 整形の先生が来るまでの、あの長い時間は何だったの? 救急病院の割に手順悪いんじゃない? 緊急で担ぎ込まれたくせに、不満だけはイッチョマエの私であった。

 「1時から」という手術にむけて、慌ただしく用意が進んでいった。

○おぺれーしょん
 PM1時少し前、手術室に運ばれる。手術室には、そこまで運んできたストレッチャー(私が寝ているベットのようなもの。多分こう呼ぶ。)のままでは入れない仕組みであり、キッチンのカウンターみたいなところで本人だけ移動し、ストレッチャーを乗り継がねばならなかった。さながら、患者は、上げ下げする料理と言ったところであろうか。
 カウンターに乗る前、手術着に着替える必要が有った。若い先生が再びスキーパンツの切断を提案。私がため息をついていると、担当の先生がやってきて、「大丈夫大丈夫」と簡単に脱がしてくれた。若先生は何か不満そうだった。
 今シーズンから新調したウエア。安物なんだけれども、評判は良かった。ボーダーが着るような、割とゆったりとしたパンツだったから、そんなに脱がすのが大変とは思えなかった。もっともその分、布の強度に問題有った様な気もする。先シーズンまでは、横にジッパーが付いていて、簡単に外れるパンツをはいていた。素材も結構丈夫な布で出来ていた。評判は最悪だったけれど、この手の事故には強かったと思う。
 脱がせてはもらったものの、はたして再利用は出来るのか? それ以前に、スキーなどという道楽に、はたして復活出来るのか? そんな事を考えながら、手術着に着替えさせられる。そして、例のカウンターの上を通り、手術室専用のカートに乗り換える。そして、目的地に運ばれた。そして、いよいよ麻酔である。
 両足を手で抱え体を丸くする。そして、脊髄に麻酔を打たれる。腰から、嫌な感じの針の感触を感じる。その後、看護婦が私の胸の辺りにタオルかけて「ついたて」をつくり、下半身との視界を隔離した。
 それから、看護婦さんが私に注意する。
 「上半身は余り上げたり動かしたりしないでください。麻酔が切れた後で、頭痛や悪寒等の、麻酔の副作用が出ることがあります。」
 私はあわてて身動きを止め、おとなしく手術台に寝そべっていた。
 しばらくすると、先生が私の足を触り、質問した。
先生:「触っているのはわかりますか?」
私 :「わかります」
先生:「下半身が暖かくなるような感覚はありませんか?」
私 :「あります」
先生:「どこら辺が暖かいですか?」
私 :「右足首の辺りです」
先生:「いい兆候だ。 少し置いておこう」
 てな感じで麻酔のきき具合を確認していた。
 数分後、今度はアルコールらしき液体を足にかけ、感じるか感じないかと質問された。何回か確認されたころ、腰を軽くゆすって麻酔の周りを促した。
 2〜3回腰を揺すられ、感覚もなくなった頃、
「そろそろだな」
と言うと、先生の姿が奥に消える。そして、さらに少しして...
・・・・・・
 気がつくと、手術は始まっていた。ドラマ等で見た通り、手術室には心電図の音がぴこぴこ響いている。左手上方に見えるカウンターは、時刻と共に、手術開始からの時間を刻んでいた。
 先生達は、何やら小言で話ながら手術を続けている。手術終了は、左手に見えるカウンターで約1時間40分を経過した頃だった。不思議なもので、その間の記憶は全てあるはずなのだが、覚えているのは、先生がデジカメで写真を撮ってた事と、1時間くらい経ったときに
「あとは縫合ですから」と、看護婦さんに言われた事ぐらい。

 手術中、看護婦の言いつけを守って「じっ」としていた私の手は、気がつくと痺れていた。 
 手術が終わると、来た時と反対の行程をたどり、手術室から出される。その際、前述の様に、カウンターを通してのストレッチャーの乗り換え作業があるのだが、若先生は以外と荒っぽかった。単に痺れていた手を急に動かされ、更に、腕の点滴のアダプターがぶつかったりしたため、思わず小声で「痛い」と叫んだところ、若先生は、上半身は何も問題ないのに、そんなはずはないだろとびっくりしていた。
 違うんですよ。単に若先生の手が、私の点滴している器具の付け根にぶつかったんですよ。とはいうものの、そんな説明は出来ない私であった。

○長い夜
 手術室を出ると、手際よく部屋まで連れていかれ、入院用のベッドに移された。東館4階1号室のベットN05、そこが私の場所であった。
 N氏とH氏が、私の手術が終わるのを待っていてくれた。折角のスキー旅行を、つまらない事故で台なしにしてしまった。何を話したら良いものか私は困った。
 5時頃に、親父が到着。新幹線とタクシーを駆使し、身の回りの物を持ってきてくれた。(というものの、本当に欲しかったのは、私が持ってきた旅行バッグであった。その中には、着替えから鏡までの簡易旅行セットが揃っているのだ。しかし、同行者にそんなわがままは言えようはずもない。 別荘から病院までは、結構な距離があるのである。)家からここまでは遠いし、交通費も馬鹿にならないので、後日、本当に欲しいものを連絡したうえで来てくれた方が、私にとっては都合が良かったのであるが、そんな事を言える訳もなかった。
 親父は担当の先生から手術の説明を聞いた後、H氏が運転するN氏の車(N氏はろっ骨損傷で、自分で運転するのが難しい状況であった。)に載せて頂き、帰途についた。時刻は6時過ぎ。たった1時間のために、申し訳有りませんでした。
 で、みーんな帰ってしまった後、麻酔は徐々に切れてきた。右足の感覚が徐々に戻ってくる。そして、それはついに鈍い痛みに変わった。それも眠りこける前。まずい事に、長時間、同じ姿勢でいたツケも来た。長い間車を運転した後のような、あの辛い腰の痛みである。右足と腰、ダブルの痛みが私をいたぶる。で、痛み止めを入れたりしたが、結局その夜は眠れなかった。数時間おきに来る看護婦さんに泣き言をいいながら、ひたすら早く夜が明けることを願う。でも、待っている時って、時間はとってもゆっくり流れるものなんです。時計の針を確認してはため息をついて、何とか楽な態勢になるように、無い知恵をしぼって...。でも、結局は待つ以外に、どうすることも出来ないのでした。

○一夜あけて
 4時を過ぎた頃だったろうか? それまでの疲れから、多少ではあるが、うとうととすることが出来た。目を開けると、夜明け直前である。不思議なもので、お日さまの光を見ると、多少であるが、痛みが和らぐ。きっと、母なる太陽のパワーに違いない(笑)。

 2日目の夜が明けた頃、何故腰が痛く成るのかという疑問に対し、結論が出た。単に、ベッドが固いのである。
 通常の状態なら、私は横になって寝るので、特に腰には問題が出ない。しかし、右足が固定されている以上、仰向けに寝るしかない。そうすると、どうしても腰に負担がかかってしまうのである。同じ仰向けに寝るにしても、民宿の、畳にせんべい布団の組み合わせで痛くなることはない。むしろ、プリンスホテルの安ベッドで寝たときに類似している。柔らかすぎるのも困るのであるが、固いベッドは安眠を妨げる。そんなことを、身をもって理解したのであった。
 夜に何度も起きてしまうほど、寝心地が悪いベッド。他の人は、辛くはないのであろうか? やっぱり辛いようである。ただし、原因は、私と同じとは限らないのではあるが。

○スケジュール
 病院の夜は早く、勿論朝も早い。大体のスケジュールは決まっているが、臨機応変な事が多い。

 06:00頃  廊下の電気が点く
 06:30頃  起床 部屋の電気が点く
 06:50頃  看護婦巡回 「お加減どうですかあ?」
 07:00頃  お茶の時間
 08:00頃  朝食が来る
 08:15頃  食膳回収
 08:30頃  部屋の掃除
 09:40頃  看護婦巡回 「体温はかりまあす」
 11:00頃  お茶 PT II
 12:00頃  昼食が来る
 12:15頃  食膳回収
 16:30頃  夜勤担当の看護婦挨拶 「今晩担当でえす」
 16:45頃  お茶 PT III
 18:00頃  夕食配膳
 18:15頃  食膳回収
 18:30頃  湯たんぽ,氷まくらの注文にくる
 19:40頃  看護婦巡回
 21:00頃  消灯 
(注:巡回は、1号室から回ってくるので、後の部屋ほど時間がかかり、さらに予定時間はバラつく。)
 

○401号室   2/9〜2/25
 この病棟の(特に)この部屋は、はぐれメンバーの集合体。本来は奥の成人病棟が整形のテリトリーなのであるが、この季節、路面凍結で転んだり、スキー場で事故が多かったりするので、通常的に腎臓内科の病棟を、整形の患者が侵略しているのであった。そのため、6人部屋の半分は、整形患者が混在していた。(聞くところによると、整形の患者は、他の階をも侵略しているらしい。)
 この病室、元気な外科患者が多いため、このフロアで一番にぎやかな病室になってしまったようだ。
ヘリポート
 401号室の窓から見えるのはヘリポート。さすがに大病院である。降雪後の雪下ろしは大変そうであった。

・SAさん  〜2/23(日)
 401号室の平均年齢は非常に高く、みんな極めておとなしかった。ただ、その中で最も若かった(50才くらい)SA氏は、実に気さくな人だった。職業は大工さん。朝方犬と遊んでいたところ、氷で滑って足首を骨折し、入院と相成ったそうな。車イスの扱いがやたらうまく、毎朝暗いうちに整形の病棟へいく。そして、そこの洗面台で体を拭くのが日課だった。ベットの横には鉄アレイがおかれ、毎日のトレーニングはかかさないという。
 不思議なことに、SAさんは、退院までリハビリが無かった。担当医も、殆ど顔を出してこない。退院が決まると、「これ以上入院しても、余り儲からないから退院させられるんだ」とぼやいていた。
 3/10 リハビリに行きがてら、整形の外来の前を歩いていたら、突然SA氏に声をかけられた。
 「まだ入院してたのか?」
 SA氏が、娘さんをお供に、外来診察に来ていたのだ。私は一瞬、その質問に何と答えるべきか言葉につまった。氏は診察の結果、この日から普通に歩くことを許されたようだ。 めでたし めでたし。

・Aさん  〜2/16(日)
 横浜市在住。60代後半位。交通事故で意識不明となり、地元の病院に入院。しかし、脳外科と整形外科の両方がある病院に移りたいとのことで、妻方の実家から近いこの病院まで、私設の救急車で転院してきたそうだ。N看護婦によると、この人は「スーパー患者」で、リハビリは、常に先生の指示の先を行ってたそうだ。私が入院した時は、すでに自前の足で歩いていた。
 入院中に、「勝手に自動車を売られてしまった」とぼやいていた。事故にあって意識不明。そして、他に免許を持つ人がいないとなれば、売ってしまおうとする奥方の考えも判らなくはないが....。

・Hさん  2/17(月)〜2/23(日)
 Aさんの後に入る。60歳くらい。足に入れた金具を取るために入院。前の手術から約1.5年後の事だそうだ。手術で出てきた金具を見せてもらったが、その「でかさ」に部屋の者一同びっくり。それは、長さ30cmはあろうかという丸棒であった。SA氏はそれを眺めながら、来るべき将来、自分の足に入っている金具を取るべきか否か悩んでいた。
 当所の予定では火曜に手術、金曜に退院の予定であったが、手術後に麻酔の副作用のためか頭痛が止らず、退院を遅らせた。土曜は仏滅、日曜は大安などと、日和に注意を払うだけでなく、同日退院のSA氏が3時に退院すると聞くなり、「2時に退院します」と張り合って爆笑を浴びていた。

・Oさん  2/1(土)〜2/15(土)
 80歳位の透析患者。腹膜透析と言う手法で、普段は自宅で透析するのであるが、細菌が入ってしまったため入院したそうだ。 腹膜透析とは、一般に普及している血液透析と違い、通院の必要がないというメリットはあるが、その所要時間は12時間(しかも毎日)。自宅で出来るとはいえ、どちらを選ぶかは、実に微妙な所だろう。
 本人は、いたって大人しい人であったが、奥さんは見かけによらず、かなりの話し好きであった。スポーツが大好きで、結構な勉強家。この病院は、プロジェクトXで紹介されたんだなどと、尽きることなく話してくれた。
 退院の日、Oさんは部屋の中央でみんなに挨拶した。普段静かだだっただけに、その美声と立派な挨拶に、驚かされた。Oさんとは変な縁で、のちに別の病室で再開することになる。

・SUさん  2/17(月)〜2/25(火)
 Oさんの後に入る。30前半位で、身長180cmオーバーの大男。SU氏,SA氏と、日本の3大名字が二つほど揃ってしまった。仕事中に転んで骨折。そのくせ、病院まで自分で車を運転して、なおかつ普通に歩いて来た。いくら車はオートマで、骨折したのが左足だったとはいえ驚異的である。患者の状態を見て大した事ないとふんでいた先生は、レントゲン写真をみてびっくり。慌てて「歩いてはいけない」と注意したそうな。N看護婦も、A氏以来のスーパー患者と大笑い。会社では人気者であったのか、見舞客がひっきりなし。同室の人は、そのおこぼれをかなり頂いた。最近柔道をはじめたとかで、山下のファンらしい。東京の古本屋に興味があるらしく、「山下の書いた本を探しているんです」と、いうことで、退院後に探してあげる事を約束した。
 抜糸も終わらぬうちに、早々に退院していった。 付添や見舞客がやたら多かった割に、退院時は一人。看護婦さんに玄関まで荷物を運ぶのを手伝ってもらっていた。(お見舞いの荷物もやたら多かったので、大変そうだった。彼のことだから、自分で運転して帰ったのかもしれない。)

 3/11 リハビリの部屋に入ろうとしたとき、SU氏がドアから出てきた。今日が初めてのリハビリだそうだ。SU氏の退院は早かったが、完全復活まではまだ遠そう。
 3/25  リハビリ室で再会。今月はまだ会社にいってないそうだ。
 4/8   リハビリは、本日で最後との事でした。
 
・Tさん
 70歳位。毎朝6時頃からTVを付ける。これが結構な音量だったで、(時に)私は自分のTVを付ける必要が無かった。いつも食事をろくに取らず、看護婦が色々と気づかっていたが、一向に食べる気配は見えなかった。よくもまあ、そんなに食べないで大丈夫なものだと思っていたら、ドリンクやお菓子など、自分で買ってきて食べてた模様。日中は意外と平気に出歩いていたが、夜になると呼吸を乱して苦しそう。時には酸素まで使っていた。そのうちに、状況が芳しくないとのことで、ナースセンターの近くに部屋を移していった。
 その後、何度か廊下で見かけた。 相変わらず不機嫌そうではあったが、日中は、本当に調子が悪いようには見えないんだよなあ。

・M氏  2/19(水)〜3/6(木)
 看護婦が来ると、「調子はどうですか?」「良く眠れましたか?」と、間髪無く質問し、
「私のせりふを取らないで下さい」と笑いを取っていた。もとは、検査のための入院だったのだが、どうも結果は今一らしく、退院が4日ほど延期になった。入院患者の退院は、殆どの場合予定をオーバーするものらしい。
 2/26日に行なわれた院内コンサートに一緒に行く。しかし、「次のコンサート(3/8)も行きましょう。」と言うと、「そんなに入院していられるか」とムッとしていた。
 言われてみれば、そりゃあ、そうですな。
 そんなM氏、3/12,3/26,4/9と、外来のついでに病室まで見舞いに来てくれた。おありがとうございました。
2/26 コンサート
 ↑ 2月26日のコンサートの模様
 ↓ ついでに、3月8日のコンサート
スプリングコンサート
 通常の定期コンサートは秋なのだそうが、病院音楽部の部長が定年されるとの事で、急遽春に行なう事になったそうだ。コーラス部の男性部員の気合いの入った合唱が凄かった。
 写真で、薄茶の背広を着て指揮をしているのが部長。部長の歌声は、ちょっとしたものであった。

○414号室  2/25〜3/1  二人部屋
 401号室で牢名主状態となった私は、部屋が移動になる事で危機?を脱した。この病院に入りたがる患者は、ウジャウジャいるようで、病室の割当が苦しくなったようだ。
 414号室は2人部屋であったが、そこには、腎臓移植患者が入っており、感染症等の心配から、同室にする患者は、誰でもいいという訳にはいかなかった。また、同年代の人という事で、他に入れられる人材は無かったようだ。(確かに同じフロアの患者を見ると、殆どがシルバー世代であった。)
浅間山
 窓から見えるのは浅間山。手前の北館と、ボイラーらしき煙が景観を著しく邪魔をする。

 部屋に入ろうとすると、いきなりドアに「面会制限」の看板が垂れていて、実際、びびった。OKさん(41歳)は、東京女子医大にて腎臓移植を行い、地元のこの病院へ移ってきた。東京女子医大には、移植患者がめじろ押しで、3チームのスタッフが交替で手術。実に毎日一人のペースで移植しているらしい。厚生省としては、年600万円も経費がかかる透析患者を抱えるよりは、移植してもらった方が経費が安くなるらしく、移植に力をいれているそうな。で、その病院はいつも満員状態なので、手術後は、本来なら埼玉の系列病院へ移るのだそうである。しかし、OK氏にしてみれば、そこは地元からはあまりに遠い。で、この病院に移ってきたそうである。(家まで車で10分程度とか。)
 部屋に入ると、OK氏のテーブル上にある「山のような薬」にビビった。それは、健康保険適応外の費用で月に約25万円かかると言われる免疫抑制剤等の薬の山であった。
 OKさん退院の日、ICUから緊急患者がやってきた。OKさんの退院予定は午前中だにというのに、部屋の準備はそれすら待てない模様。10時を過ぎたころ、二人とも414号室を追い出された。私は407へ、しかし、OK氏は行く場所を奪われ、仕方なく、家族とともに会議室付近をうろうろしていた。

 3/13 風呂の用意をしていたら、突然OK氏に再会。数日間の検査入院だったそうだ。しかし、午後に病室に訪ねてきてくれた氏は、言うことが変わっていた。肝心の検査が出来なかったので明日退院後、次週にまた入院しなければならないという。その一つの検査とは、腎臓の細胞を採取する検査なのだそうだが、血液をさらさらにする薬を飲んでいるので、危なくて出来なかったそうだ。なんて段取りが悪いんでしょう。 
 「折角仕事の都合を付けてきたのに......。」
 OKさんは嘆いていた。

○407号室   3/1〜4/12
 OKさんの退院にあわせ、私は二人部屋を追われた。そして、魔の407号室に移動する。
 407の患者達は、いろんな意味で凄かった。最たるは平均年齢。私を含めても、軽く70才を越えているであろう。 ともかく大変な部屋である。
407の窓から
 下方に見えるは千曲川。3部屋の中では一番みはらしいいけれど、東館4Fの景色なんて、所詮この程度です。 河川敷の駐車場は、増水したら直ぐに水没しそうですね。(実際過去に水没したこともあったそうな。)
 「北国の春」という曲は、この、千曲川をイメージして作ったそうです。しかし、千昌夫が歌ったので、新潟のイメージに変わってしまったそうだ。(Yさん談)

・Oさんふたたび  2/20(木)〜4/5(土)
 今度のベッドの位置は、多少は配慮してくれたらしく、窓際であった。「こんにちわあ」と、奥に入って行くと、ベッドの向かいに覚えのある顔が。それは、再び腹膜透析に不具合を起こし、再入院したO氏であった。変な縁である。
 3月8日に退院予定であったが、突然の発熱で退院は延期となる。しかし、発熱の原因は不明。しかも、なかなか回復しないため、担当医は悩んだ末、腹膜透析を中断した。で、当面は血液透析を行なうことになる。とりあえす、当分はこのまま血液透析続け、冬前に腹膜透析に戻すか否かを判断する事になったらしい。
 4月5日のOさんの退院日には、突然の大雪が降った。O氏は「なかなか迎えが来ない」と、迎えの車の事故を心配していた。その一方、退院の準備は全然していなかった。 お昼頃、迎えが到着する。小諸からタクシーで来たらしい。息子さんは、「タクシー待たせてるんだぞお」と、何の準備もしていないOさんの荷物をみてびっくり。慌てて荷物をまとめた後、無事?に退院していった。

・Yさん 1/19(日)〜3/7(金)- 成人病等3Fへ移動 〜3/18
 本人は、70才になると申しておりました。東京医科歯科大学(お茶の水)で、右足に人工関節を埋め込む手術をしたそうだ。
 事の起こりは、膝の不調だったそうだ。いい加減おかしいと検査したところ、初期の癌が発見された。足を、干物のように切り開き、その手術を行ったとのこと。しかし、手術は以外と難しく、予定時間をかなり超過したという。癌だけに、ほっておくと命も危なかったらしいが、初期のうちに見付けることが出来、事無き?を得た。運の良いことである。
 お茶の水では約2ヶ月入院し、正月を自宅で過ごした後、この病院に入ろうとしたら部屋が無かったそうで、1/19まで自宅待機したあげく、ようやく空いたのが西舘の5階。それから、準整形病棟のここ(東4F)で整形の病棟(正式名は成人病棟)の空を待ち、3/7日にこの部屋を後にした。向こうのフロアはやたら豪華なのだそうだ。会社を退職した後、夫婦で様々の国を旅したという「お金持ち」には、相応しい場所なのであろう。 そこで、ある日(暇つぶしに)そのフロアをチェックしてみた。そこでは、明らかな待遇の違いを目の当たりにすることが出来た。
 そういえば、車イスを看護婦に取られ、なかなか戻ってこない事に激怒していた事があった。これに代表されるような「ちょっとした待遇の不満」がつのり、病室の移動を申し出ていたのかもしれない。

 Yさんが移動した後、この部屋には、普通に会話できる相手はいなくなってしまった。

・以下省略
 だから、もう、あとはどうでもいいや。・・・
 とはいうものの、誰かがこの病室を卒業するたびに、次の患者について多少は期待してしまう。しかし、メンバーが変わるたびに、私のため息は、さらに深くなっていった。
 「ありゃあ大変だわ」
 O氏のお見舞いに来た娘さんが、私の入院環境をみて、こう言っていたそうである。O氏の奥さんが、後日私に教えてくれた。判ってくれる人がいて、少しだけ嬉しかった。

○担当医
 割と若めで大柄な先生であった。話し方は上手くはないけれど、実に「いい人」タイプ。割と気にかけてくれたらしく、数日に一度は見回りに来てくれた。ある日、病院の玄関口に、医師のメンバー表を見付けたので、その名前を探した。そしたら、「整形外科医長」と、なっているではないか。驚きとともに、「右足は、きっと復活する」と、信じ始めたのはこの時からだったと思う。
 日曜日の緊急手術。大怪我だったから、恐らく、休日中に呼びだしちゃったんだろうなあ。大変申し訳有りませんでした。
 3月6日 明日から海外の学会に出席とのことで、その前に回診してくれた。この時、これからの、おおまかなスケジュールを教えてくれる。それは、(経過が良好だったので) 「後2週もすれば退院であろう」と思っていた私の思惑から大きくズレていた。 先生いわく。
 「あなたの怪我は、あなたが思っている以上に重傷なんですよ。」
 うーん。まいった。 そうだったのか。

○リハビリのI先生
 リハビリルームは北館の1階。 この部屋は、何時も忙しそうである。常に何人もの患者が順番を待っている。そして、その患者達の平均年齢の高さにも驚かされた。
 担当のI先生は、その部屋の中でも、ベテランの一人であった。どうも、この病院では、先生には恵まれるように思う。I先生は、今や珍しいオーディオマニア。つまり、俗に言う秋葉原系。おかげさまで、色々と話が通じるので、リハビリの中退屈しなかった。
PT 
 上の写真は毎日の日課、CPM。看護婦がガラガラと運んでくる。リハビリでは、下の写真の様にして訓練した。リハビリ中は、ニーブレスが外れるので、ちょっと解放感。

○受け持ち看護婦と車イス
 どうも、受け持ち看護婦には嫌われてしまったらしい。何やら態度が冷たい。どうやら、自分の担当に、元気な患者が居ることが煩わしいようだ。此処の看護婦は、みーんな辛抱強い。例えば、夜中にわめきだしたり、歌ったりしている患者,一人では動けない患者,そうゆう人達に対しても、やな顔せずに付きあう忍耐力はある。(何と、入れ歯を洗っている場面に遭遇した事さえある。)だから、うるさかったり、手のかかる患者に気を使う分、能天気な患者の顔をみると、気分を害するのかもしれない。(しかし、彼女の担当患者では無いが、透析患者のテーブルの上に、平気で「アジシオ」の瓶が置いてあったりする。何で、誰も注意しないの? 老人に、甘すぎるぞ!!)
 そもそも、手術の次の日から、私は車イス(ボード付き)に乗れる事になっていた。しかし、それが来たのは入院4日目であった。実際は、2日目はベッドから動きたいとも思わなかった(というか、動けなかった)ので、問題ではなかったが、3日目はたまらずに催促した。臨時にやって来た車イス。新前らしき看護婦が持ってきてくれたが、セッティングの仕方が判らなく、かなり、テンポラリーな使い方であった。その車イスは、次の日に「使ってていいですよ」と、私の元にやってきた。今度は一応のセッティングはされていたが、乗りにくさは「相変わらず」であった。 先生の指示から、実に3日遅れの事である。
 この車イス、本当に乗りにくかったので、無い頭をひねって改造?した。背もたれのポケットにあった簡易レンチセットが、それを可能にしてくれた。
車イス
 私が使ったのと同型の車イス。主な改造点は、赤丸で囲った所。車イスは、横から乗り込むため、乗るに邪魔なものは取り去った。他に、ボードの部分の角度修正(少し下目に傾いていたので、紙を挟んで修正)、荷物用フックの取り付け(使い捨て”えもんかけ”を固定)等を行なった。
 足りないときは、右下のようなのを使う事もあるそうだ。ある看護婦が、「止めたほうがいいよ」と言っていた。実際危ない。

「松葉づえは、明日来ますよ」
 と、先生に言われたのは、2/17。しかし、実際に来たのは、2/20の、リハビリに行く直前。 前日に、 
 「リハビリのI先生に、明日松葉づえを持ってくるように言われたんですけれどお!」
 と、催促した末のことであった。そして、2/21。運命の日は来た。車イスでリハビリから帰った後、その足で、松葉づえの練習がてらトイレに行った。そして、ベッドに戻ってみると...........。そこには既に、車イスは無かった。SAさんが、「持ってかれちゃったよ」と、笑いながら教えてくれた。
 車イスで移動すれば、負傷した足を横にしたまま移動できる。しかし、松葉づえで移動する場合、足を下に降ろさねばならない。足を下げると、足に血が下がるせいか、段々と痛くなってくる。そんな訳で、「もう少しだけ、車イスを使っていよう」と、思い直した直後の事であった。
 実は、前日にも取り上げられそうになったため、
 「月曜まで勘弁して下さい」
 と、婦長にお願いしておいた。だから、まさかこんなに早く取りあげられるとは思っていなかった。
 看護婦は、私が思っている以上に、私の怪我を大したこと無いと思っているらしい。
 私が一般的な怪我の経過を聞いても、
 「それは、担当の先生に聞いてください。」
 など返答するくせに、 リハビリの先生から、
「そろそろ病室内で、松葉づえの練習を始めて下さい。」
 と言う段階で、私から車イスを取り上げる。おまけに、松葉づえ持ってきたのは、昨日の事だぞ。しかも、催促した上の事じゃあないか。 え! やっている事に、矛盾はないかい?
 その日の夕方、私が(仕方なく)松葉づえで移動してたら、担当の先生にはち合わせた。そしたら先生、(車イスを使ってなかったので)少々びっくりしながら、
 「どうしたの? .............まあ、若いからねえ。」
 と、言っていたのが、印象的であった。
 数日後、私の車イスに足を曲げて乗っている老人を発見。私の車イスは(自分で付けた)荷物運搬用のフックがあるので直ぐ見分けられるのだ。この車イスは、この病棟では数少ないボード付きである。足を曲げられない人は、このタイプしか乗れない。しかし、よりによって、足腰が弱っているだけのジイさんが使っていた。(怒) 直前に、足を曲げられない患者が、ボードのない車イス(写真の緊急用に近いやつ)を、使いずらそうに乗ってるのを見ていたので、怒りひとしおである。
 例えば、退院間近で悪い方の足に10Kgまで加重できるSAさん。彼が車イスを取られたのは、入院から3週間以上たってから。だのに、荷重NG,足曲不可,抜糸もまだの私が、なあんで車イスを取られねば成らぬのか? しかも、足を曲げられる爺さんのために!!  足をアイシングしながら、私は怒っていた。足を数分にわたり下に降ろすと、(血が下がるせいか)痛くなってくるのであった。
まつばづえPT2松葉づえ
 二度目に来た松葉づえ。何と新品である。 始めのに比べ、グリップの握りが良くなり、かつ調整が楽になった。これは院内専用。つまり、5000円の保証金が不要である。
 → 逆に言えば、退院時には、旧型(もっとボロいの)しか借りれない訳だ。(笑)
 何で松葉づえと呼ぶのか、悩みながらこの写真を眺めていたら、何となく、松葉みたいに見えてきた。

 ある日、407号室で、O氏が「看護婦が怠慢だ」とブツブツ言っていた。401にいたとき、SA氏とH氏が、ピンクチームとブルーチームの看護婦を対決させるように「しかけて」いたのを思い出す。
 今、その訳が何となく判ってくる。
 「お互いを競争させた方が、色々と改善するんだ。」
 これは、H氏の談。いがいと、深い思惑の上だったのかもしれない。

○その他看護婦
 入院時に貰った紙の中に「受け持ち看護士制についての御案内」というものである。
 なんと、患者毎に受け持ち看護士を決めているのである。しかし、御存知の通り、病院は24h稼働?している。つまり、当然看護士も24h常駐しているわけで、交替勤務という過酷な勤務形態なのである。そこで、この案内にも「看護士は3交替勤務をしておりますので、受け持ちの看護士が不在の場合は、他の看護士が代行させていただきます。」と書かれている。実際、不在の場合の方が多いのである。そして、看護士の仕事は激務であるため、不在でなくても都合上、別の看護士が対応してくれる場合が多い。「受け持ちを決めても、意味あるのかしら?」、チョット疑問に思うのであった。

 前項でも少し書いたが、看護士は2チームに別れている。ブルーチームとピンクチームである。入れ替わりも激しい60人もの患者を全て把握するのは大変なため、看護婦と患者を2チームに分けたと想像する。全員が60人を把握するよりも、半数が30人を把握するほうが多少は楽であろう。何を基準に受け持ちやチームが決められるのかは疑問であるが、(まあ、受け持ちが決まれば自然にチームも決まるが)ややこしい事に違いはない。(参考までに、H氏は、「ブルーチームには、ひょうきん者が多い」とか、申しておりました。)
 そんなチーム分けも、4月1日からは編成がガラリと変わった。それどころか、全体のメンバーも病院内で入れ替わった。ブルーチームのメンバーは勿論、新人や他の病棟から来たらしき看護婦も加わる。記憶力のない私にとって、また、顔ぶれを覚え直すのも大変である。
 尚、運がいいんだか、悪いんだか解らないが、仲の悪い受け持ち看護婦には変更がなかった。

○風呂
 「お風呂はどうします?」
 担当看護婦からこんな言葉を投げ掛けられた。407号室に入った日の事である。良く判らないので、
 「この状態で入れるんですか?」
 私は逆に質問した。荷重NG,足曲NGの現状で、まともに風呂に入れるとは思えなかったのである。また、手術の後(傷口)を暖めてしまっていいのか疑問でも有った。
 「どうしましょうか?」
 と、質問を返されてしまった担当看護婦は、患者に対しどう勧めたものか困っておった。そんなこんなで、協議の結果、本日はシャワーのみにして、風呂は2日後にすることとなった。その時、成人病棟にあるという「広いと言われている風呂」に予約を入れてもらった。足が曲がらないから、狭くては困る。
 東舘4Fの風呂は、入院患者に評判が悪い。SA氏も、わざわざ成人病棟のお風呂を予約して入っていた。東館は、トイレにしろ風呂にしろ、スペースが狭いので手足不自由な整形の患者にとって、評判が悪いのであろう。だから、私は、広いと言われる風呂に、多少なりとも期待していた。しかし...
 残念ながら、それは、期待ほどの物でなく、ホテルに付いている西洋式の”バス”と、同じものだった。確かに東4の風呂場よりは広いけれど、お湯を出す蛇口が、冷水と温水の調合を保ったまま止められる、新式の物だったけれど、わざわざ混雑する中を予約入れてもらうほどの違いとは思えなかった。なので、この御風呂に入ったのは、これが始め最後である。

 4日後、(前日に、風呂の予約は自由であると聞いたので)東4の風呂に勝手に予約をいれて入った。風呂桶を適当に洗ってお湯を入れる。そして、湯船につかっていると、壁面が、やけにざらざらしていることに気付いた。備え付けのスポンジで洗った時は、そういう材質だと思っていたのだが、入っているうちに、それは汚れだと気付いた。考えてみれば、私が最初に風呂に入ったのは、入院後23日目の事である。此処は病院なのだから、こんな事は十分有りえる話なのである。次回から、入る前の掃除が念入りになったのはいうまでもない。
 その後、何度も風呂に入ったが、掃除前に触って、あの時ほどざらつく事はない。
 これってもしかして、あれ以前は風呂桶が洗ってなかったって事? それとも、久々に風呂に入る様な人が、居なくなったってこと?
 とはいえ、風呂桶をシャワーで流すだけでは「ざらざら」が取れないことが判った。というのも、このお風呂、最近とみに人気がなく、日に一人も入らない事すらある。ある日、1日置いたというにも関わらず前回の使用者が私であった。風呂に入った後は、軽くシャワーで流すようにしているのであるが、この日の掃除は、若干の「ざらざら」が見られたのだ。これを何十回も繰り返したり、久々に入る人がいた場合、冒頭のような現象になるのはごく自然なことと理解できた。

○ 本棚
・多くの人にとって、入院中は退屈なものである。昼間のTVは、ろくな番組をやっていないし、病棟内を歩きまわるにも限度がある。(TVは、900分で1000円もする。ちょっと、ボッタクリだと思う。)
 それでも、入院4日目に車イスを貰った私は、とりあえず4階を動いてみた。すると、成人病棟の端の長イスの横方に、スチール製の本棚を見付けた。そこには、数十冊の雑誌と単行本が乱雑に押し込められていた。その日から、ここへ通うのが日課となった。

・暫くして、4階西舘に「食堂・談話室」なる部屋を見付ける。そこには、数十冊の単行本と数冊の雑誌があった。

・「成人病棟の3階に、大きなロビーがあるぞ!」407号室で隣になったY氏の談である。早速行ってみると、そこは別世界であった。私の病室をエコノミーとすれば、ビジネス〜ファーストクラスの病室が揃っている。そして、確かにロビーらしきものがあり、そこにも本はあった。少しだけであるが。

・成人病棟のエレベーターを使ってリハビリに行くと、途中に放射線科がある。その待ちあい場所のカラーボックスにも、たま〜に本が置いてある。しかし、入院生活中においては、たかが1冊も貴重なのであった。

・病院内ををあちこち動き回ったが、上の階については足が重かった。エレベーターは混雑していたし、用も無いのに他の病棟へ行ク事は、敷居が高かったのである。ある日、4Fのベランダで夕日の写真を撮っていた時、ふと、「もっと上の階の方がロケーションが良いのでは?」と考えた。そして、6Fに登ったとき、そこに大量の蔵書を見付けた。

・数日後、同様の理由で7Fまで登った。そこで、ものすごい量の本を見付ける。そこの巨大な本立てには、読み切れないほどの漫画や単行本が収めれていた。
 探せばあるものである。この部屋を見付けてからというもの、毎日が忙しくなった。
book
 成人病棟4Fの書庫は、使用者のマナー悪し。何度も本を並び直したが、次の日にはグチャグチャ。また、読み終わった後、書庫に戻さずに、その辺にうっちゃっておく馬鹿者も多数いる。なので、6Fや7Fに書庫がある事は、他の人には秘密にしていた。 ちなみに、写真を撮る前には、少しだけ片づけているので、実際はもっと乱れている。

○食事
 病院食が、こんなに「おいしい」 とは思わなかった。過去の入院や、お見舞い時に見てきた病院食は、メニューといい味付けといい、とても好んでは食べられるものではなかった(または見えなかった)。なので、多少の覚悟をして望んだ食事。しかし、それは、良い意味で期待を裏切った。最も、入院から一週間ぐらいはそれに感動していたものの、徐々にそれなりのメニューになってきた事からも、多少の浮き沈みはある事は否定できない。しかし、沈んだとしても、決して味付けが悪いわけではない。
 気になるのは、看護婦の回診?時の、
「ご飯はどれくらい食べられましたか?」
 という質問である。あの程度の量の食事をが食べきれない筈はなく、それでもこう言う聞き方をされると、全部食べ切ってはいけないのでは?という疑問さえ浮かぶ。しかし、
「偉いねー! 全部食べられたんだ!!!」
 なんて会話すら聞こえる407号室。(いや、このフロアの60%以上が同様の会話をしていてもおかしくない年齢構成である。)
「それくらい食べきれんでどうする」
 などという私の意見は少数派でしかないのである。体が回復してくるにつれ、病院食だけでは物足りなくなってきたある日、食事に「とろろ芋」が出た。御存知の通り、大変消化が良く、そのせいか、普段余り食べない人でさえ、倍量のご飯を食べさせてしまうという、あの、とろろ芋である。しかし、ご飯の量は何時も通りなのである。
 で、この日の晩、受け持ち看護婦に同様な質問をされた時、たまりかねて私は言ってしまった。
 「ご飯の大盛りは無いのですか?」
しかし、無駄と思っても言ってみるものである。おかげさまで、その晩から、ご飯のみ大盛りに変更された。最も、「とろろ」 がおかずに出る事は、4月4日まで待つことになる。

 407号室のメンバーは、”わがまま”が多い。透析なんぞしているくせに食卓塩の瓶を机に置いている人達。(しかも、誰も注意しない。)病院食などは見向きもせず、奥さんが持ってくる弁当やおやつばかり食べている人。昼頃にレストラン近くで見かけたと思ったら、みんなが食事終わった頃に部屋に戻ってきて、「それ、いらない」と、テーブルに置いてある食膳をそのまま下げさせた障害者。(こんな奴の為に障害者保険が使われてると思うと、やたら腹が立つ。)407号室の紹介で、「あとはもうどうでもいい」と書いたのは、こんな理由もああり、かかわり合いたくなかったからである。 

○転倒
 リハビリのI先生が、新人に説明していた。断裂の修復手術をした場合、縫い合わせたところが少しずつ壊死するので、手術直後よりも1週間経過したぐらいが、引っ張りに対する強度が一番弱くなる。そして、2週では元の強度までもどらず、3週ぐらいでやっと上回るようになるのだそうだ。なので、手術直後より1週間目位経った頃が、一番気をつけなければいけない時期なのだそうだ。
 うーんそうだったのか。危ないところであった。(だったら、車イスをとり上げるの、絶対早いぞ!!)
 実は私、4度ほど、危ない目にあっている。
 最初は入院後2〜3週頃。リハビリに行くために部屋を出たところ、いきなり滑った。丁度、掃除のおばさんがモップで水拭きした直後で、床が濡れていたのである。こういう不運は、気を抜いている時に限って起こるものである。それからというもの、掃除のおばちゃんは、私の顔を見るたびに、「気をつけて歩くように」と注意するようになった。
 次は、数日後の1階の渡り廊下。これも、雨と泥で汚れた廊下をおばちゃんが掃除した直後であった。
 3度目と4度目は3階の北館へ行く渡り廊下である。此処は南から北に向かってやや下っている。通路の中央部には、絨毯みたいのが敷かれていて滑らないようになっているが、その両端の床は、何故かワックスを塗ったかのように滑りやすかった。3度目は両足と両手の松葉づえごと、すべって転んだ。おかげで足には負担は無かった。しかし4度目は違った。松葉づえなしで歩ける様になり、過去に滑った事などもすっかり忘れていた。 この時、右足は絨毯の上、左足は普通の床の上に乗っていた。そこで左足が滑る。しかし、右足は滑らない。とはいえ、負傷している右足に体重を支えるほどの力はない。そのため、右足を折り曲げるようにして転倒。リハビリで120度曲げるのがやっと頃、右足にそれ以上の負担を与えた。手術後47日後(3/28)の金曜日の事であった。(これが、3週以内であったらと思うとぞっとする。 患者の殆どはスリッパで移動しているので、この通路は要注意である。) 幸か不幸かこの通路は人通りが少ない。ぶざまな姿を人に見られなかった事は幸運であったが、誰の助けも受けれないことは、ちょっぴり不幸であった。通路脇に放置されているベット(これがあったからこそ、通路の真ん中を歩かなかったのだが、転んでしまった後では、このベットがある事が嬉しかった。)まで這えずり、数分休む。そして、どうにもならないので、右足を引きずりながら、やっとの思いで病室まで戻った。

 次の日、松葉づえで移動していたら、担当の先生に偶然遭遇。いまさら松葉づえで移動している私を見た先生は、不審に思ったのか声をかけてくれた。
「実は、転んじゃったんです」と言うと、びっくりされて、病室で診断してくれた。
 「癒着が剥がれたのかもしれない」
 とは、先生の談。患部には問題が無かったようなので、ひとまず安心した。どうやら、きついリハビリをやったようなものらしい。しかし、それからしばらくは、松葉づえ無しでは移動できなかった。

○回復
 完全復帰までの道のりは、結構遠そうです。
 2月09日      :手術
 2月12日〜2月20日 :車イスで移動
 2月21日〜3月03日 :松葉づえで移動
 3月04日〜3月06日 :松葉づえで移動 荷重20Kg
 3月07日〜3月09日 :松葉づえ片方で移動 荷重Full 
 3月10日〜3月16日 :松葉づえで移動 荷重20Kg  (以降ニーブレス無し)
 3月17日〜3月23日 :松葉づえで移動 荷重40Kg
 3月24日      :松葉づえ片方で移動 荷重Full
 3月25日〜3月28日 :松葉づえなしで移動 
 3月28日      :転倒 右足に、120度以上曲げるという負担をかける。
 3月28日〜3月29日 :松葉づえ移動に逆戻り 
 3月30日〜4月01日 :松葉づえ片方で移動
 4月02日〜4月12日 :松葉づえなしで移動 (退院12日)
Progress
 ↑傷口の復活具合。入院中に、右足の筋肉が げっそり と落ちました。ひざ小僧の形も何か変です。
6〜12か月
 左が6ヶ月後,右が1年後。ひざ小僧の腫れが小さくなり、傷口も目立たなくなってきた。しかし、右足は、相変わらず細い(筋肉が付かない)。....2004年.2月追加

○退院
 入院から8週弱の時間が経った頃、ようやく退院の目処が立った。 で、12日の土曜日を退院日と決めたのであるが、今一つ不安が残った。なぜなら、リハビリのI先生や看護婦には、直前まで話が通っていなかったのである。N看護婦などは、退院前日に、「5月まではいるものだと思っていた」などど、のたまわっておった。

 退院当日、朝9時過ぎに風呂に入った後、看護婦の巡回を待って売店に買い物に行こうとしてた。そしたら、いきなり迎えが到着してしまった。私は青ざめた。約束は、午後1時だったのである。
 どんなに早くても、11時前に来る事は無いと信じていた。逆に言えば、11時頃に、大方の退院準備を終える様な予定を立てていた。それなのに、何で10時前にやって来るんだ。昼食だって頼んであるんだぞ。前日立てた今日の計画は、ズタズタになった。
 入院も長くなると、色々と雑務が残っているものである。これから、それらを片づけ始めようとする、正にその瞬間に迎えが来た。 困ったことに、困っている私の心中は理解されなかった。それどころか、「早く来て何が悪い」とばかりの態度。はっきり言って、邪魔。どっかに行ってほしい。
 やっとの事で病室から追っ払って、買い物行って、本を返して...。 何か、帰り支度はせっつかれているようで、せわしなかった。そして、幾つかやるつもりのことを、やり忘れた。これは、私の神経が細すぎる事が問題なのかもしれない。
 こんなことなら電車で帰れば良かった。私は少々後悔した。折角の退院日なのに、一日中 ”不愉快”な気分は晴れなかった。

○通院
 「5月か6月に来れたら来て下さい。来れなければいいです。」 
 とは、担当の先生の談。受け持ち看護婦は、もう来る必要は無いと言い切る。はたしてどうしたものか?
 結局、悩んだ末、6月27日に通院することにした。怪我が怪我だけに、万が一の時のために先生に忘れられないようにとの配慮があったとかなかったとか。まあ、も一度行ってみたいと言うのが正直な所か?
 診察は、地元の病院のそれとは違い、結構丁寧であった。入院中よりも丁寧である。また、レントゲンや体力測定、ポラロイド等、やたらとデーターどりされた。(ちなみに 体力測定=リド によると、右足の力は左足の2/3程度。)更に、次回はMRIもとりたいとのことで、2ヶ月後の通院も決定してしまった。
 
9月27日 (2か月?後)
 先生が指定したのは間違いなく今日だった。しかし、「学会出席のため不在」とはどういうこと?
 何でも、「事前に家に2度電話した」というが、どうも嘘臭い。家には大抵誰か居るし、8回も鳴らせば自動的に留守電になる。きっと、5回ぐらいしかコールせず、2度目も10分後位にかけたに違いない。担当した看護婦の怠慢が手に取るようだ。不審に思ったので、記録されていた番号を一応確認するが、間違いはなかった。その時、対応してくれた看護婦が私の住所を見て絶句した。
「こんな遠くから来たんですか?」
 そうです。ですから、
「次の予約は何時にしますか?」
 と急に言われても、私も困るのです。
 そう答え、予約は追って電話で取ることとした。
 さて、折角来たのだから、検査だけはしてもらった。MRIは高かった。そして、リドには絶句した。なんと、前回測定値よりも下がってしまったからだ。あれだけ歩き回ったのに、下がるとは解せない。
 (再来院を少し先に設定して、その間鍛えて)再度チャレンジしてやろうと、密かに考えていた。
 それにしても、ここまでたどり着くのは大変だった。途中、車のプラグコードがリークして、一気筒死んだ状態で走ってきたのだ。時間に間に合わせるために、修理も出来ずに無理して走ってきた。まあ、3気筒もあれば、一応走れるものだね。

●月×日
 有楽町の東京国際フォーラムで、リハビリのI先生と遭遇。「オーディオフェア」だったので、「もしかして」とは思ったが、本当に会うとは思わなかった。 あー びっくりした。

翌年3月5日
 ようやく再来院したのは翌年だった。しかし...。
 リドの測定結果が、前回よりも下がっていた。

  Lido筋力測定結果 (Average torque ;平均値)      単位 Kg 
筋 肉 6月27日 9月27日 3月5日
quadriceps
大腿四頭筋
右足(怪我した足) 69 54 50
左足(対照) 111 127 138
hamstring
ひざ後ろの腱
右足(怪我した足) 46 57 72
左足(対照) 52 64 62

・怪我した方の大腿四頭筋の筋力は、測る毎に低下しているが、対照の左足はパワーアップしている。
 また、太もも側の怪我した足の方の筋力は、測る毎に増加し、対照をしのいでしまった。
 つまり、肝心な所の筋力は落ちてしまい、その他の筋力はアップしたのだ。これは、リハビリが不適切だったため、「弱い所をカバーするための筋肉だけ鍛えてしまった。」と推測する。
・X線&MRIの結果は全く問題なく、「もう来なくてもよい」という雰囲気であった。よって、このレポートは、これでお終いになりそうである。リドだけは、再挑戦してみたい気もするが....。
りどそくていき
 左はリドの測定器。右と下はのレントゲン写真。
れんとげん
・そういえば、リハビリのI先生に「次は何時ですか?」と聞かれたが、担当のK先生の様子から「もう来なくて良いみたいです。」と答えざるを得なかった。
 そしたら、「じゃあ、オーディオフェアで会いましょう」と言ってくれた。



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