>>> 藤沢も 歩いてみようよ (2) <<< 2003,
May 〜 with FinePix500
今回の場所は、藤沢駅から結構離れた所であり、自転車かバスが便利であろう。バスに乗るのであれば、藤沢駅から湘南ライフタウン行きに乗り、引地橋で降りる。上の地図の右下(養命寺の手前の橋辺り)あたりの停留所である。また、大庭城址だけに行きたいのであれば、舟地蔵で降車すればよい。
☆養命寺
この寺には(普段は拝む事は出来ないが)昭和2年に国宝に指定され、現在は重要文化財であるところの「薬師如来座像」が安置されているそうだ。
☆おしゃれ地蔵
「女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名付けられたとされる。 形態的には「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神の表現が)妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしていきたいとのこと。 |
☆台谷戸稲荷の森
樹齢300年を越えるタブの木を中心に、モチの木などの常緑広葉樹とケヤキなどの落葉樹が混生している。 |
☆小糸庚申塔
多分、これ(写真)の事だと思います。
☆舟地蔵公園
1989年に開園し、広さは14800平米。花壇の草花は、2〜3か月ごとに植え替えられているそうだ。
☆舟地蔵
地蔵尊の台座が舟型になっていることから舟地蔵と呼ばれています。 その昔、北条早雲が大庭城を攻めたとき付近一帯は沼地で、なかなか攻め入ることが出来ませんでした。北条氏は、沼近くに住む老婆から引地川の堤を切れば沼は干上ることを聞きだしましたが、秘密漏れを防ぐため老婆を斬り殺してしまいました。その結果、北条氏は、ようやく城を攻め落すことができたそうです。 舟地蔵は、殺された老婆を供養するため建てられたという言い伝えがあります。 |
☆大庭城址公園
大庭城は、平安時代の末期、大庭荘を本拠としておこった関東平氏の雄、大庭氏の拠点であったと伝えられますが、明らかな記録はなく、室町時代中頃になって、扇谷上杉定正の執事太田道濯が、本格的な築城を行なったとされています。
その後、上杉朝良のとき、北条早雲によって攻略され、以後、小田原北条氏の支配下に置かれました。そして天正15年、小田原北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされ、大庭城は廃城となったようです。
現在残されている土塁・空堀などの城跡の構えには、小田原北条時代の改修があったものと考えられますが、雄大でかつ綿密に設計されていたことは、築山、裏門、二番構、駒寄などの地名からもしのばれます。
掘建柱建物址 大庭城は、台地上を東西に横断する三本の空堀によって一の郭、二の郭、三の郭、四の郭にわかれています。ここは、最南の郭にあたり、北縁の空堀によって、北側の郭と区画されています。周囲には、土塁の跡が部分的に見られ、東斜面には腰郭、西斜面には二段の空堀や帯状の腰郭が残っています。 この石柱は、昭和43年の発掘調査で確認された高床建築の柱穴の配列(掘建柱建物址)を示したもので、実際の柱穴は現地表下50cmに保存されており、これは原位置ではありません。 この他にもいくつかの遺構が発見されていますが、この郭が大庭城のなかで、どの様な役割をはたしたかは、今後の全面的な発掘調査をまたなければ判りません。 |
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原始・古代の集落 この台地上には、縄文・弥生・古墳・奈良・平安時代など各時代の遺物が広く散布しており、大庭城が築かれる以前から、人々の生活舞台となっていました。 これまでの数階におよぶ部分的な発掘調査でも、縄文時代の集石遺構をはじめ、弥生時代後期から古墳時代にかけて竪穴住居や方形周溝暮、さらに奈良・平安時代の竪穴住居などが、豊富な生活用具(土器・石器・鉄製品・装身具等)をともなって、数多く発見されています。 これらの貴重な資料は、特に弥生時代以後の人々が、東側の引地川や西側の小糸川流域に水田を開き、この地に大規模な集落生活を営んでいたことをもの語っています。 |
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足型モニュメント 藤沢市市政施行50周年記念事業のひとつとして、市民から応募いただいた足型で「足型モニュメント」が誕生しました。 中略 ここに記された一歩一歩は藤沢の発展の礎となり、市政100周年へ向けた貴重な道標になることでしょう。 いま、みどり豊かなこの大庭の岡に完成した「足型モニュメント」は、夢と未来へのメッセージを携え、35万市民とともに”ロマンの海”に向かって歩みだします....。 |
☆裏門公園
ここは、開発で出来た遊水池だが、水鳥の楽園になっているそうだ。
公園といっても、普通の公園ではない。強いて言えば、野鳥の為の公園である。
人間達は、塀に開いた「のぞき穴」からのみ、中を眺める事が出来る。
☆熊野神社・市杵島神社
熊野神社は北の谷熊野神社ともよばれる。市杵島神社には、この地域を統治する加々爪氏によって苦しめられた農民達が弁財天を勧請したところ、悪政や凶作がおさまったという言い伝えが残る。
☆聖ヶ谷の石造物
1811年建立の庚申供養塔。厚木から南下してきた道がここで分れるため、道標とされていた。 |
☆ 引地川親水公園
藤沢市の予算が余ったのでしょうか? 大庭神社の向かいに、りっぱな公園があります。
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