藤沢を 歩いてみようよ (1)  2004, May 〜  with FinePix500

 JR藤沢駅から、小田急線藤沢本町までの道のりです。
 大庭城址方面をご覧になりたい方は、こちらへどうぞ!! → 藤沢探索(大庭城址・他)
ちず

☆藤沢駅
えき

☆江の島道標
 元禄年間(1688〜1704)に、江の島までの間に48基建てられた道標。現在残っているのは、11基で、これはその一つだそうだ。
 


☆船玉神社
 祭神は弟橘姫命。縁起では、鎌倉3代将軍の源実朝が船を造らせるため材木を切りだした所と伝えられる。
 かつては、江の島からこの付近まで、船が出入りしていたという。


☆諏訪神社
常光寺
 江戸時代は藤沢宿大久保町,大鋸町の鎮守。遊行寺の鎮守でもあった。大国主神(大黒)の子であり、事代主神(恵比寿)の弟にあたる建御名方富神と、八坂刀売神が祭神。 階段を登った高台にある。

☆遊行寺
遊行寺
 正式名称は藤沢山清浄光寺。開祖・一遍は諸国をめぐりながら踊念仏を広め、遊行上人といわれたことから遊行寺と呼ばれる。境内には数多くの史跡や文化財,樹齢300〜700年のイチョウの木などがある。

☆真浄院
 時宗に属し、遊行寺の参道のなだらかな坂の途中にある。本尊は阿弥陀如来。もとは清浄光寺塔頭の筆頭。遊行上人が入山する前夜は、ここに宿ることを例とした。

☆常光寺
常光寺
 浄土宗の寺で、藤沢宿問屋場跡に建っている。

☆永勝寺
 旅籠を営む小松屋源蔵が、供養のために建てた飯盛女の墓で有名。飯盛女とは、江戸時代に旅籠屋で働く給仕兼遊女のこと。飯盛女が多いほうが繁盛するため、幕府も一軒の旅籠に二人まで置くことを公認していた。ところがそれは原則で、藤沢宿27軒の旅籠には100人近くの飯盛女がいたという。彼女らの多くは、宿内や周辺の年貢課役に苦しむ農村から来て、借金の代わりになかば売られてきた女性達である。そのため旅籠での扱いもひどく、苦労のうちに不幸な一生を終える者がほとんどで、多くの旅籠では彼女らが死んでも無縁仏として埋められていた。当時は身分制度がきびしく、人間として扱われない人達が多くいたなかで、小松屋のように飯盛女一人ひとりに墓を墓を建て葬るというのは希有なことであった。山門を入ってすぐ左の墓地に、小松屋源蔵の墓を奥にした手前の囲いの中に39基の飯盛女の墓がならんでいる。みな70cmほどで、5文字しかない戒名と施主小松屋源蔵の名が刻まれているそうだ。
 (これらの墓は、1761〜1801の40年間のもの、つまり源蔵一代で建てたものと考えられ、また、一つの旅籠で40年に39名も死亡しているということから、記録に残る遊女の平均寿命が21才だったというのも、あながち誇張ではなかったであろうと説明されている。)


☆妙善寺
妙善寺
 正式名称は長藤山妙善寺。1271年に、佐渡に流される途中に立寄った日蓮上人を本尊とする。1280年、日開が日蓮宗に改宗した。

☆白旗神社
白旗神社
 古くから寒川比古命を祀り、現在は義経も祭神とする。兄頼朝に追われ、1189年4月30日に奥州平泉で自害した義経の首は、鎌倉で首実検されたのち、この地に埋められたと伝えられている。

☆義経首洗井戸
義経首洗井戸
 首実検のあと、片瀬の浜に捨てられた義経の首は、潮の流れにのり、境川をさかのぼってこの地に漂着したという。首は里人によってすくいあげられ、この井戸で洗い清められた。

☆藤沢本町駅




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