▲▲ 横浜市神奈川区 ▲▲▲ April 4, 2004 with FinePix 500
神奈川区は東海道53次の宿場町神奈川宿の名に由来する。神奈川湊は鎌倉時代から栄えたといい、江戸時代の神奈川宿は、神奈川最大の都市だったという。幕末には開国の舞台となって、各国の領事館が置かれるなど、歴史に名を残した。
神奈川歴史道は、上台橋から神奈川通り東公園に至るおよそ4Kmの道のりである。
▲▲ 横浜駅
▲▲ 上台橋
大名や公家が泊まる本陣は、滝の橋をはさんで東に神奈川本陣、西に青木町本陣の2ヶ所があった。海側の青木町本陣からさらに西、神奈川宿のはずれにあたるのが上台橋付近だそうだ。 かつてこの上台橋のあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。切通しの道路ができるとともに、昭和5年、ここに陸橋が架けられた。 |
ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス人総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は安政6年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。 明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。 |
三宝寺は、瑠璃光山と号し、浄土宗に属す。慶長2年(1597)に寂した嘆誉和尚の草建である。 弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが、関東大震災で被害を受け、第二次大戦で焼失した。現在の本尊は、その後、東京芝の大木山増上寺より遷座したものである。 当時で忘れてならない人物として第21世住職弁玉和尚が居る。和歌を橘守部・岡部東平に学んだ弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人である。 |
普門寺は、州崎山と号し、真言宗智山派に属す。山号州崎は州崎大神の別当寺であったことより起こった。また、寺号の普門は州崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。 江戸後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時は、イギリス士官の宿舎に充てられた。 |
1859年5月、幕府は伊よ松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。 当時の台場は総面積約8千坪の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と工期約1年を要し、1860年6月竣工した。 明治32年2月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正10年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。 |
▲▲ 神奈川の大井戸
この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、当時は宗興寺を「大井戸寺」と呼ぶほどであったといわれている。 江戸初期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に充てられたと伝えられ、また、開港後には宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸水を使用している。 また、この井戸の水量の増減によって翌日の天気を知ることができるといわれ、そのため「お天気井戸」とも呼ばれた。 |
浄瀧寺は妙湖山と号し、日蓮宗に属す。1260年妙湖尼は、当時の政治の中心地であった鎌倉に向かう途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遭った。 法尼は聖人の人格にうたれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。 聖人が「立正安国論」著作し、鎌倉幕府に献策した年でも有る。 また、横浜開港当時には、イギリスの領事館として使用された。 |
高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれてやがて姿を消しました。 かつての神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にありました。 その規模は、間口5m、高さ3.5m奥行1.5mと大きなものでした。 この高札場は、資料をもとに復元したものだそうです。 |
▲▲ 金蔵院
金蔵院は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創建された古刹。その後、徳川家康から十石の朱印地を許されていた。本堂前に家康の”御手祈梅”(3代目)がある。 |
東光寺は、平尾山と号し、新義真言宗に属す。この寺の本尊はもと太田道灌の守護仏であったが、道灌の小机城攻略後、平尾内膳がこの仏を賜り、この寺を草創したといわれる。 また、道灌は内膳に本尊を与えるに際し、「海山をへだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ」との歌を読んだといわれ、この歌が東光寺の名称の由来だとも伝えられるそうだ。 |
▲▲ 神明宮
神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かでない。「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ1299年の観請としており、この神社と能満寺が草創当初より極めて密接な関係であったことを伺わせる。
かつて境内を流れていた上無川に牛頭天皇の御身体が現れ、州崎神社およびこの神社に牛頭天皇を祠ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。
▲▲ 能満寺
海運山と号し、古義真言宗に属す。1299年、内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託しているという霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。本尊は高さ15cmの木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられる。
かつては、神明宮の別当寺で同一内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ現在に至っている。
▲▲ 笠のぎ神社
天慶年間(938〜947)に稲荷山の中腹に創祀。蒙古襲来の際、北条時宗が国家安泰を祈った。1689年に山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちることから笠のぎ稲荷大明神と称され、明治2年に現在地に遷座された。
また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。御礼に粢団子をそなえるという。
▲▲ 良泉寺
良泉寺は、海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す、本願寺第八世蓮如上人に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創、1646年に入寂したこの寺の第4世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられる。
開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。
▲▲ JR東神奈川駅
●おまけ
▲▲ 豊顕寺市民の森
北条氏の家臣で青木城主・多米元興の創建で、16世紀に三河から移され、壇林が開かれた名刹。 現在三っ沢せせらぎ緑道として整備されている。
▲▲ 三っ沢公園
横浜駅西の高台に広がる、緑に包まれた総合スポーツ公園。
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