▼▼▼▼ 浜松日帰りめぐり    Sep. 4, 2004 with CAMEDIA C-700
■ 9月4日〔土) スケジュール
  5:31 平塚  → 沼津    6:37     JR
  6:50 沼津  → 浜松    8:54     JR    

   ×××××× 浜松観光 ××××××××

  17:48 浜松  → 静岡  19:00   JR
  19:01 静岡  → 熱海  20:15   JR
  20:38 熱海  → 平塚  21:29   JR  と、いうことにします。本当は→ 大阪



● 朝一の電車で ・・
 朝一番での出発は、すっ〜ごい楽。
 何て言っても、座っていける。後は寝てれば到着します。

×××××× 浜松観光 一般編 ××××××
 まずは、一般編からどうぞ。
map

● 浜松駅
えき

● 浜松科学館    開舘 9:30〜17:00  入館 500円   http://www.hamamatsu-kagakukan.jp
浜松科学館
 自然,宇宙,音,光,エレクトロニクス,力 をテーマにした展示のほか、プラネタリウムもあります。(入場料は400円アップ)
 また、周りは自然観察園となってます。

● 浜松楽器博物館    開舘 9:30〜17:00  入館 400円   http://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/gakki/
 楽器に関する企画展や特別展が催されている他、展示室では、世界の楽器約1000点を展示。体験コーナーでは、自由に楽器を演奏できます。

● 浜松子供館
 遊びのなかで体験や交流をしながら子供の創造性や社会性をはぐくみ、また子育てを支援します。....ってパンフに書いてあるけれど、実のところ、何の為の施設なのでしょうか?


● 浜松復興記念館    開舘 9:30〜17:00 
復興記念館
 太平洋戦争で27回もの空襲を受けた浜松市の、焦土からの復興記録を展示....というより、復興期頃の懐かしい生活用品を展示していると言ったほうが近いか?

● 五社神社・諏訪神社
神社
 国守久野越中守が浜松城前身の引馬城にまつり、1580年に徳川秀忠がここへ移した五社神社。
 791年に坂上田村麻呂が上中島に創建、後に浜松に移され、1634年に徳川家光がここに社殿を造営した諏訪神社。
 昭和53年に、両社合祀され、57年に現社殿が造営されたそうだ。

● 浜松城    天守閣開舘 8:30〜16:30  入館 150円
しろ

 徳川家康が築き「出世城」とも呼ばれた浜松城の跡地は、現在公園となっている。昭和33年に再建された天守閣は、一階に甲冑や刀剣、古銭,二階に乗馬具などの道具類が展示され、三階は展望室となっている。


● 浜松市美術館    開舘 9:30〜17:00  常設展 300円
 郷土ゆかりの作家の洋画・日本画のほか、西洋・中国・日本のガラス絵や、浮世絵などのコレクションが展示されている。


● 浜松文芸館    開舘 9:30〜17:00  常設展 300円
 浜松と遠州ゆかりの文芸作家の資料を収集展示している。


● 伊場遺跡資料館(浜松市博物館分館)    開舘 9:30〜17:00  
 
 浜松最大で、縄文時代から壊疽時代までの遺跡が地中で重なっている複合遺跡が、伊場遺跡群。
 浜松市博物館に収まりきれなかったらしき分を展示している模様。こちらは、入場無料です。奥には遺跡公園があるそうです。行き忘れてしまったので、次回があれば、行ってみたいですな。

×××××× 浜松観光 家康ゆかりの史跡散歩 ××××××
 浜松は、戦国の頃まで引間(曳馬・引馬とも書きます)と呼ばれていました。1570年徳川家康は遠州地方を支配する拠点として曳馬城の大改築を行ないました。家康の浜松城の築造が浜松の名の出発点となったのです。この家康や徳川家にまつわる旧跡・寺院などをたどるのが、この「家康の散歩道」です。
ちず2                       地図・解説 :犀ヶ崖資料館の資料より

● 雲立楠(八幡宮内)
雲立楠
 八幡宮にある「雲立楠」は、幹回りが13mもある大木で、幹の下が空洞になっている。
 三方ヶ原合戦のとき、武田方に追われた家康が、この空洞に身を隠して難を逃れたと伝えられている。このとき大木の梢に端雲がたちのぼったということから「雲立楠」と呼ばれるようになった。

● 椿姫観音
椿姫観音
 第四代曳馬城主飯尾豊前守乗竜公が今川氏真に殺害された後、その妻お田鶴の方(椿姫)が第五代曳馬城主となった。しかし、家康との戦で曳馬野の露と果てた。母同士が義理の姉妹にあたる築山御前は、その死を哀れみ、討死の場所で供養し、塚の周囲に百余株の椿を供えた。数日後、椿はゆかりの色と香りをこめ、微笑むように咲きほころびていたと伝えられている。

● 二代目将軍徳川秀忠誕生の井戸
二代目将軍徳川秀忠誕生の井戸
 家康の側室、西郷局は、地侍の娘。浜松城に奉公に出て家康の目にとまり、1575年秀忠を生み、翌年忠吉をもうけた。秀忠を生んだ場所については二説あり、その一つがここ常磐町内で、現在石碑が建てられ、産湯をつかったと伝えられる井戸の跡石で井の字が組まれている。

● 東照宮(曳馬城跡)
東照宮
 東照宮は、明治19年旧幕臣により創建。正面に石の鳥居。鳥居横に史跡碑「曳馬城跡」がある。社殿の扉や屋根には三つ葉葵の紋どころがみられ、家康公祭神のお社であることを表している。1567年三河から遠州に入った家康は、今川方の拠点であった曳馬城を攻め、この城に入城後、城地を拡大して浜松城を構築した。

● 家康公鎧掛松
 1572年家康は三方ヶ原合戦から浜松城に逃げ帰り、大きな松の陰で休んだ。そのとき鎧を脱いで鎧を掛けたということから「鎧掛松」と呼ばれている。
 現在の「鎧掛松」は、(昭和初期に暴風で倒れた後)昭和56年に地元の有志によって復元されたもの。

 
● 浜松城   開舘 8:30〜16:30  入館 150円
浜松城再
 家康が初めて浜松の地を踏んだとき入城した曳馬城は、遠州の経路拠点としては狭かったため、曳馬城の西側の丘陵地を利用し大規模な築城を行い、1570年に入城。三方ヶ原合戦は、その2年後である。現在残っている遺構は天主曲輪の一帯で、荒く組まれた野積みの石垣が往時の面影を伝えている。現在の天守閣は昭和33年に建てられた。

● 本田肥後守忠真の碑・三方原古戦場犀ヶ崖 (犀ヶ崖資料館  開舘 9:00〜17:00
 犀ヶ崖資料館は、「三方ヶ原の戦い」による死者の霊をまつった宗円堂というお堂でした。また、昭和5年に結成された「遠州大念仏団」の本部としても、ながく利用されてきました。
 浜松市は昭和57年には、この建物を資料館として改修し、遠州大念仏及び三方ヶ原の戦いに関する資料を展示することにしました。
犀ヶ崖
・本田肥後守忠真の碑〔写真右)
 犀ヶ崖資料館(写真左)の敷地内に本田肥後守忠真の戦功碑がある。忠真は本田平八郎忠勝の伯父にあたる徳川の武将であった。武田勢との三方ヶ原合戦では共に参戦した息子の菊丸に、主君家康を護るように言い残し、刀一本で敵中に切り込み討死にした。
・三方原古戦場犀ヶ崖
 徳川勢と武田勢が激しくぶつかりあった三方ヶ原合戦は、1572年12月のこと。徳川勢は敗走、攻撃を続ける武田勢は犀ヶ崖付近で野営をしたが、徳川勢の夜襲にあい、崖に転落するものが続出し、大損害を被った。 

● 夏目次郎左衛門吉信の碑
 犀ヶ崖古戦場の一角に、 夏目次郎左衛門吉信の碑がある。吉信は1563年に三河一向一揆のとき捕らえられて処刑されるところを、家康の寛大な処置で助けられた。この恩を感じていた吉信は、三方原合戦の際、「ここが自分の死に場所」と、犀ヶ崖付近で武田勢の前に立ちはだかり討ち死にした。

● 普斉寺
普斉寺
 遠州における曹洞宗の拠点で、西遠地方の曹洞宗寺院の殆どがこの寺の末寺である。1428年に開創された。
 三方ヶ原合戦では兵火にあって伽藍が炎上。その後も災禍により山門など一部を除いて灰になったが、今は諸堂再建され、往時の寺勢を誇っている。

● 西来院
西来院
 西来院は寒巖13流のうち月窓派の拠点として1428年開創された。この寺は、築山御前の廟書のある禅刹として有名である。廟内にある御前の墓碑には清池院殿の法号が刻まれている。御前廟の西側には家康の異父弟にあたる松平源三郎康俊の墓がある。

● 宗源院
宗源院
 普斉寺13流のうち歴史の古い曹洞宗の寺で、開創は1416年。室町時代後期の今川義元の庇護を受け再建した。また、成瀬藤蔵正義・外山小作・遠藤右近など、三方ヶ原合戦の徳川方戦没者の墓がある。

● 浜松博物館    開舘 9:00〜17:00  入館 300円
浜松博物館
 ナウマン象の骨格見本から原始集落の模型、近世城下町の模型、近代の織機などが展示されており、浜松の古代から現代までを知ることができる。また、家康関連の資料として「家康公日課念佛」・「天竜川御難之図」などを見ることができる。

・蜆塚遺跡
蜆塚遺跡
 佐鳴湖の東岸にひろがる遺跡(国史跡)。縄文後期から晩年にかけての遺跡とされ、昭和30年から4年がかりの調査で、3ヶ所の貝塚と28戸の住居跡、30体分の人骨などが発掘されている。今は公園として整備され5棟の家屋を復元、厚さ1〜2mの貝塚も、永久保存されている。

● 太刀洗の池
 家康の正室、築山御前は16歳で家康と結婚。今川方の血を引く気品ある女性であった。家康は信長の命により、わが妻を殺さざるをえない事情に追い込まれる。家康は家臣に命じ、岡崎から浜松へ向かった御前を、鳴湖畔で待ち伏せして命を断った。その血のついた太刀を洗った池を太刀洗の池と呼んだ。
 1575年8月。御前は38歳であった。

 ここまでの工程に、カメラのレンズキャップを紛失してしまった事に気付く。暑い中、大通りまでの坂道を数往復したが、出てくるはずもなく....。 借り物のデジカメだったので、真っ青でした。
 で、次の週末にカメラ屋(ヨドバシ)へ駆け込んだのは、いうまでもありません。 たまたま在庫があり、助かりました。



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