まあ、近いかな??? 「熱海」 Nov. ?, 2005   with FinePix500

● 駅 
 熱海駅です


● 家康の湯
 熱海の駅前に足湯があります。ここは、1604年3月、徳川家康が7日間熱海に逗留した史実(東照公記等)の400周年記念記念事業として整備され、平成15年12月10日、熱海温泉組合より熱海市へ寄贈されましたとさ。

● 筆塚 & 句碑
 明治30年1月から明治35年4月まで読売新聞に掲載された尾崎紅葉の小説「金色夜叉」。 熱海は、この小説のクライマックスに設定されたことで、観光地として大きく飛躍しました。この筆塚は、その尾崎紅葉の徳を称えて作られたそうです。
 筆塚の中には、生前に使用していた筆が祀られており、句碑には、俳人としても有名だった紅葉の句が、紅葉の自筆をもとに刻まれているそうです。

● お宮の松
松
 尾崎紅葉の「金色夜叉」で寛一が「今月今夜この月を....」の名ぜりふを吐き、宮と別れたのがここらしい。

● 伊豆山神社
伊豆山神社
 836年創建で、のちに 鎌倉幕府の崇敬厚く発展した。源頼朝と北条政子がデートした場所とも言われ、本殿横に二人の「腰かけ石」もある。(写真右)


 熱海七湯めぐり
 古来からある源泉の中でも、熱海温泉の歴史に重要な位置をしめてきたという「熱海七湯」を巡ってみましょう。

● 野中の湯
 野中山のふもとの、このあたりを野中といいます。
 この辺一帯は、泥の中に湯がブクブク噴いて、杖で突くと涌きだしたといわれています。また、このあたりの土は丹(赤色の土)のようで、壁を塗る材料にしました。
 江戸時代までは、この「野中の湯」は湧き出るところが浅かったので、あまり入浴には利用されなかったようで、湯をためる湯桝を設けなかったといわれています。

● 小沢の湯 (平左衛門の湯)
 沢口弥左衛門、藤井文次郎、米倉三左衛門の庭の湯を「平左衛門の湯」と称していました。また、土地の人は小沢にあったので「小沢の湯」とも称しました。
 「清左衛門の湯」と同様、人が大きな声で呼べば大いに涌き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。

● 大湯
 古来からの間欠泉で世界でも有名な自噴泉でありました。
 「大湯」の噴出は昼夜6回で、湯と蒸気を交互に激しい勢いで噴出し、地面が揺れるようであったといいます。明治中ごろから次第に減少し末ごろには止まってしまいましたが、関東大震災のとき再び噴出しました。しかし、その後も噴出回数は減少し続け、昭和のはじめついに止まってしまいました。
 昭和37年に人工的に噴出する間欠泉として整備され、市の文化財として保存し現在にいたってます。とのこと

● 風呂の湯・水の湯
 「風呂の湯」は、昔の坂町高砂屋の庭から湧き出ていました。今の福島屋旅館の西側です。
この湯は外傷に良いといわれ、また、湯気の上騰が盛んで饅頭を蒸したり酒を温めたりして販売していました。
 「風呂の湯」の傍ら1.5mほど東のところに塩分のない温泉が湧き出ていました。
 明治11年大石青巒の熱海史誌には、淡白無味常水を温めるもののごとし、故に「水の湯」と名付くと記されています。

● 目の湯
 工事中でした。

● 河原湯
 このあたりを東浜といい、道もなく石のごろごろした河原で、温泉が絶えず豊富に湧き出ていて村人の入浴場でした。
 湯治客は大湯の源泉が主に使われ、ほかの源泉も限られた家のみが使用するお湯で、熱海村の農民や漁師や近郷の人たちが自由に入浴できるのは、この「河原湯」だけでした。
 1666年小田原城主稲葉美濃守が、村民のために浴室を設けてその屋根を瓦葺としたため「瓦湯」と称したともいわれています。
 この湯は神経痛やリューマチなどに効能があり塩分が多く、人が入ると透明な湯が湯が白く濁るほどであったといいます。

● 清左衛門の湯
 昔、農民の清左衛門という者が馬を走らせて、この湯壺に落ちて焼け死んだので、その名が付いたといいます。
 明治までは、昼夜常に湧き出て絶えることがありませんでした。
 人が大きな声で呼べば大いに涌き、小さな声で呼べば小さく湧き出たといわれています。


 戻る  → HOME Document
 表紙へ → index